べっぴんさんのモデルは坂野惇子さん!【ファミリア創業者】/人間味あふれる、彼女の生涯とは?

スポンサーリンク

秋から始まる、NHKの朝ドラ「べっぴんさん」。ヒロインのモデルは坂野惇子(ばんの・あつこ)さんという方です。

この坂野惇子さんの生涯をもとに、「べっぴんさん」が展開していきます。

 

NHKの公式情報によると、「べっぴんさん」というのは、

  • 美しい女性
  • 格別な品物(=別品)を作る人

の2つの意味が込められているそうです。

 

モデルとなっている坂野さんは、いったいどんな「べっぴんさん」なのでしょうか?

坂野さんの生涯をまとめましたので、是非ご覧ください!

 

坂野惇子さんは、日本の子供服業界のパイオニア!

坂野惇子さん

出典:ファミリア公式ホームページ

坂野惇子(ばんの・あつこ)さんは、子供服の老舗名ブランド「ファミリア」の創業者です。

 

「育児に悩む母親のため、そして未来ある子供たちのため」という思いで、一心に子供服作りに心血を注いだ方。

「愛情品質」を考えた子供服作りで、機能的かつ良質な赤ちゃん肌着やオムツを考案し、ベビー服業界に新風を吹かせた方です(ファミリア公式ホームページによる)。

経営者が交代した今でも、ファミリアは「愛情品質」をモットーにし続けています。

 

ファミリアの子供服、確かにけっこういいお値段なんです。

familia-onepiece

出典:ファミリア公式オンラインショップ

女の子用のこのワンピース、30,000円ほどします…

でも、そこは「愛情品質」。品質は折り紙つき。ここ一番の服として、お受験の子供に着せてあげるお母さん方が多いようです。

 

今でも高品質で愛され続ける子供服を作り続ける、ファミリア。

その創業者の坂野惇子さんは、一体どんな方なんでしょうか?その生涯に迫ります。

 

坂野惇子さん、神戸に生まれる。

-shared-img-thumb-KAZ7842_DSCF3259_TP_V (1)

1918(大正7)年4月11日、神戸の裕福な家庭に生まれた坂野(旧姓=佐々木惇子)さん。3人姉妹の末っ子でした。

父は佐々木八十八さんといって、レナウンという大企業の創業者です。貴族院(現在の参議院)議員も務めておられました。

父親の家族は早くに病気で亡くなってしまっていたため、子供たちの健康には神経質なぐらいに気を遣っていました。

たとえば、キャラメルはアルコール消毒してから食べる、といった具合に…

 

そんな名家に生まれ、何なら「箱入り娘」として何不自由ない暮らしを送っていた坂野さん。

ここで思いがけぬ出逢いがありました。

 

出逢いのきっかけは「リュックのヒモ」

france-264225_640 (1)

甲南女学校4年生のとき、六甲にスキーへ行った坂野惇子さん。

そのバスの中で、坂野惇子さんのリュックのヒモがほどけてしまっていました

 

それに気づいてヒモを結んであげたのが、当時甲南高校1年生だった坂野通夫(ばんの・みちお)さん

これがきっかけで、2人は出逢い、交際を始めることになりました。

 

坂野惇子さんはその後、父親の勧めで上京。2年間、東京の女学校で勉強することになりました。

坂野通夫さんは京都帝国大学(現・京都大学)に入学。

 

遠距離恋愛の末…

坂野通夫さんが大学卒業を控えた1939(昭和14)年、2人は婚約

坂野通夫さんの就職も決まり、卒業した1940(昭和15)年5月12日、2人は結婚したのでした。

 

しかしそのとき、戦争はすぐそこまで来ていたのでした…

 

坂野惇子さんの出産と結婚、そこに迫る戦争。

still-1141345_640 (1)

1942(昭和17)年、坂野家の第一子・光子(てるこ)さんが誕生。

しかし、喜ぶ間もなく。1943(昭和18)年に、夫である通夫さんは戦争に駆り出されてしまいます

 

終戦間近の1945(昭和20)年、坂野惇子さんの自宅は神戸大空襲で焼け落ちてしまいます。

坂野惇子さんと娘は、お姉さんが住む岡山へ疎開。消息のわからない夫・通夫さんを待ち続けることになります。

 

夫の帰還、しかしその後の生活は苦しく…

homeless-212591_640 (1)

1946(昭和21)年、夫・坂野通夫さんは無事帰ってきます。

坂野惇子さんも岡山を引き上げ、今度は兵庫の尼崎で生活を始めることに。

 

しかし、このとき日本の銀行は預金の引き出し制限をかけていました。

預金を引き出せず、坂野さん一家は必要なものにも事欠く生活が続くことになりました。

お嬢様として何不自由ない暮らしをしていた坂野惇子さんでしたが、ここで一気にどん底まで落ちてしまうことになるのでした…

 

坂野惇子さんは、子供を育てながらできる仕事を…と、家で洋裁をはじめます。

しかしお嬢様育ちの惇子さんは、代金を請求することができませんでした。商売に関しては全くダメだったのです。

洋裁を依頼した近所の人たちは、そんな彼女に気を遣って現物でお礼をするのでした。

 

持ち物を売って、お金を作ろうとしたはずが…!?

坂野惇子さんの実家は軽井沢に別荘を持っていて、空襲の被害を受けていませんでした。

もう倉庫代わりになっていましたが、坂野さんたちはそこに保管していたものを売ってなんとか食いつないでいました。

 

shoemaker-1140951_640-1

ある日、坂野さんは全く履いていないハイヒールを持って、昔からの付き合いである「モトヤ靴店」に売りに行きます。

店主である元田蓮は、その靴を見てびっくり。何と、そのハイヒールは元田さんが坂野さんのために作った靴だったのです。

元田さんは「どうかこれだけは売らないで欲しい!!」と坂野さんに懇願します。

 

話題に困った坂野さん。娘の話をしようと、写真を取り出します。

元田さんはその写真に映っている、坂野惇子さんが自分で作ったハンドバッグに注目します。

元田さんは「店の一角を提供しますから、坂野さんが作られたものを売って商売したらいいんじゃないでしょうか?」と坂野惇子さんに提案します。

これが、坂野惇子さんの人生を大きく変えるターニングポイントになるのでした。

「ベビーショップ・モトヤ」をオープン。しかし商売の仕方が分からず…

坂野さんは、親友の田村枝津子さんに相談。

田村さんの義理の姉・光子さんと3人で「ベビーショップ・モトヤ」を立ち上げます。

 

このころから「愛情品質」は健在。手間ひまかけて最高の品物を作っていた坂野惇子さんたちの子供服は、良い評判を勝ち得ていきます。

 

yarn-1468907_640-1

しかし、初月の利益は…なんと、毛玉2つ分

お嬢様育ちの坂野惇子さんたちは、原価を知ってしまうと申し訳なくてそれ以上の値段が付けられない…という、商売人として致命的な人の良さだったのです。

 

店の一角を貸してくれた「モトヤ靴店」店主・元田さんや、坂野惇子さんの夫・通夫さんはこれにびっくり。商売の仕方を彼女たちに教えていきました。

そのかいあって、坂野惇子さんらの「ベビーショップ・モトヤ」は少しずつ力を付けていったのでした。

 

ついに「株式会社ファミリア」が誕生する

「ベビーショップ・モトヤ」のすぐ南側に、坂野惇子さんの父親が経営する大企業「レナウン」のサービスステーションがありました。

しかし、戦後の混乱で神戸から撤退を余儀なくされたのです。

 

ここに、坂野惇子さんの夫・通夫さんが目をつけます。

レナウンの社員だった通夫さんは、これを機に「ベビーショップ・モトヤ」をちゃんとした会社にして、このレナウン跡地で商売をすることを提案します。

当時のレナウン社長も、これに大賛成。わたしが株主になる!とまで提案してくれたのでした。

 

ここで、坂野惇子さんの会社「株式会社ファミリア」が誕生したのでした。

1950(昭和25)年、終戦から5年経ったころのことでした。

 

ファミリア、阪急百貨店からオファー。しかし坂野惇子さんは…

ファミリアが設立してまもなく、阪急百貨店の社長・清水雅さんがファミリアについて知ります。

そして、阪急百貨店から取引を申し込まれることになりました。

 

願ってもない大チャンス到来!

 

no-1532783_640-1

…でも、坂野惇子さんはそのオファーを断ろうとします

 

その理由は2つ。

ひとつは、「服についているファミリアのマークを、阪急のマークに付け替えて販売する」という契約条件。

ふたつ目は、阪急百貨店の商品の扱い方。フエルトの帽子を無造作にダンボールに詰めるなど、商品への配慮が欠ける扱い方をしていたのです。

 

坂野惇子さんの予想外の返事に、仲介役で夫の坂野通夫さんも、阪急側も大あせり。

それで交渉の末に、「ファミリアマークはそのまま」「阪急の下請けとして商品を出すのではなく、直営店として自ら出店する」ということで決着がつきました。

…坂野さんはそんな交渉の末、1951(昭和26)年、「阪急ファミリアグループ」として、阪急百貨店に出店しました。

 

坂野惇子さんの、この強気な姿勢

これこそが、ファミリアの「愛情品質」を確立していく大きな原動力となっていきます。

 

坂野惇子さん、「愛情品質」ゆえの強気商売!

ファミリアは商品も接客も1流。子供服は飛ぶように売れていきました

 

そんなある日。

阪急の担当者はファミリアのショーケースを見て、ずいぶん在庫が売れていることに気がつきました。

それでファミリア側に、「みっともないから商品の補充を早くするように」と言いました。

 

これに坂野さんらは大激怒。

ファミリアの商品は、阪急側が出してくる販売予測数に基づいて生産していたのです。

「阪急側の予測が外れたことは棚に上げ、なんでそんな言い方をしてくるのか!」と。

 

それで、坂野さんは「それなら、2台あるショーケースを1台お返しします!」と言ってのけたのです。

問屋がショーケースを奪い合うような時代に、商売人としてありえない強気采配でした。

 

このときに動いたのが、阪急社長・清水雅

彼は優しく、坂野さんに言いました。

「あなた方の立派な仕事ぶりは、きっと成功する。この際だから、ショーケースを減らすなんて言わずに、むしろ5台にするように工夫してくれませんか?

あなた方の会社は、きっと阪急を代表するようになりますよ!」

 

社長自らのこの言葉で、坂野さんたちは感激。ますます一致団結して、商品の生産・販売に力を注いだのでした。

 

坂野惇子さんの夫・通夫さんが取締役として入社

ここまで、ファミリアの社長だったのは元田蓮さん。そう、坂野さんらが商売するきっかけを作った「モトヤ靴店」の店主です。

しかし、彼は辞任すると言い出します。靴店の店主としての仕事が忙しく、社長らしい働きができないのが心苦しい…と。

 

そこで、次期社長として候補に上がったのが、坂野惇子さんの夫・坂野通夫さん。もともとは、坂野惇子さんのお父さんの会社・レナウンで働いていました。

坂野通夫さんはこれで一念発起。レナウンを退職し、ファミリアに入社しました。

 

…しかし、このときは取締役として。坂野通夫さんは慎重な人で、「会社全体を把握できてから、社長になる!」と決めていたのです。

実際に社長になられたのは、1956(昭和31年)のことです。

 

坂野通夫さんは、これまでアバウトだったファミリアの経営を改善していきました。これも、レナウンで培った経営の腕が生きているからこそ。

商売がニガテな坂野惇子さんらにとって、これは本当に大きな支えでした。

 

高島屋からの申し出と、東京進出

勢いが止まらないファミリア。

japan-343444_640-1

ついに東京の高島屋から、「うちで子供服展を開催して欲しい!」と依頼を受けることになりました。

 

しかし、これまでファミリアは阪急百貨店で店を出してきました。坂野通夫さんはこのことを考えて、高島屋の申し出を断ろうとします。

しかし意外にも、阪急百貨店の社長がこの話を聞き、やってみるように背中を押したのです。

 

それでついに、(子供服展というイベント期間だけでしたが)ファミリアは1954(昭和29)年に東京進出を果たしました。

 

子供服展が終わった後も、高島屋はファミリアに出店して欲しいと頼みます。しかし、坂野惇子さんはこの申し出を断ります。高島屋の店員は、服の扱いが雑だったのです。

本格的な東京進出は、しばらくお預けになりました。

 

伊勢丹からの申し出と、坂野惇子さんの「強気」再び。

高島屋に続いて伊勢丹も、子供服展をやってみないかと申し出をしてきました。

その申し出を受け入れると、さっそく伊勢丹は企画書を送ってきました。しかし坂野惇子さんはそれに納得できませんでした。

 

writing-1149962_640-1

それで坂野惇子さんは、レポート用紙40枚にわたる計画書を作成。伊勢丹に送り返し、彼らをびっくりさせます。

 

すると今度は逆に、伊勢丹が「ファミリアに学ばせて欲しい」と社員を一人派遣。ファミリアで研修できるように取り計らい、ノウハウを伊勢丹に持ち帰ったのです。

 

子供服展はもちろん成功。そして、この件で伊勢丹も「ファッションの伊勢丹」と呼ばれるほどの成長をとげるきっかけを作ったのです。

 

ファミリア、ついに正式に東京へ出店!

これまでは「子供服展」という名の催し物ばかりでしたが、ついにファミリアが東京に出店することになりました!

阪急百貨店が東京へ進出することになり、出店を要請されたのです。

1956(昭和31)年5月のことでした。

 

…しかし、売り上げは低調でした。これまで東京で開いてきた子供服展は、大盛況だったのに…

落ち込む坂野惇子さんに、夫・坂野通夫さんは優しく声をかけました。

「前回2回の子供服展は、特別なイベントだったよね。今回はイベントではないし、ダイレクトメールも出してないんだから、最初はこんなもんだよ。

いい商品だったら、お母さんたちもきっと選んでくださるようになるよ」

 

…その言葉通りになりました!

ファミリアは次第に売り上げを伸ばしていき、東京でも成功していったのです。

 

ファミリア、ついに皇室御用達になる

venice-italy-gritti-palace-1606930_640-1

1963(昭和38)年、皇后・美智子さまが第一子を懐妊。そこで、なんと高島屋がファミリアの出産用品を献上することに!

坂野惇子さんも献上に同行することになりました。

 

そんな縁もあり、美智子様が後日高島屋のファミリアに直接訪れることになりました。

この機会に、坂野惇子さんは美智子さまと会話することを禁止されていました。しかし、美智子さまのほうから坂野さんに話しかけてくることに!

こうして、坂野惇子さんは美智子さまと直接言葉を交わすことができたのです。

 

それ以後も皇室は高島屋経由でファミリアの商品を購入していましたが、いつの間にか高島屋を介さずにファミリアから直接購入が始まることに。

ファミリアは、皇室御用達のブランドになったのです。

ファミリア、ついにザギン(銀座)へ進出!

ginza-725794_640-1

坂野惇子さんのお父さんが設立した会社「レナウン」から、「ファミリアを銀座に出店してみないか!?」とオファーがかかりました。

レナウンがお付き合いしているお店が、銀座から撤退。そのツテで、この出店話が舞い込んできたのです。

 

しかし、坂野惇子さんはその誘いを断ろうとしていました。

実際、銀座出店を本気で考えたことがあった坂野さん。でも、子供服は単価が低く、銀座の高い地価を払いきれないだろう…と判断し、断念した過去があったのです。

 

ここで坂野さんを優しく説得したのが、阪急百貨店の会長・清水雅さん。ファミリア設立初期からの良き相談役です。

レナウンの担当者である尾上さんという人をよく知っていた、清水雅さん。それで、

「彼が悪い話を持ってくることはないんだから、もう一度よーく考えてみたらどうだろう?あなた達なら、きっと成功すると思うよ」と坂野さんを説得。

坂野さんはこれで一念発起。「銀座ファミリア」という別会社を発足させることにして、銀座に店を構えることになったのです。

1976(昭和51)年のことでした。

 

坂野惇子さん、病に倒れる。夫の通夫さんも…

doctor-563428_1280 (1)

1992(平成4)年4月、坂野惇子さんは心筋梗塞で倒れてしまいます。

危篤状態となったものの一命を取りとめ、翌月(5月)にはゴルフを楽しめるまでに回復しました。

 

…しかし、今度は夫・坂野通夫さんが倒れてしまいます

同じ年の5月に腸閉塞になってしまい、1月後の6月、亡くなられてしまいました。77歳でした。

 

坂野惇子さん、通夫さんを継いで会長へ

person-731423_640-1

これまで社長だった坂野惇子さん。亡き夫・通夫さんのあとを継いで、1992(平成4)年に会長になりました。

1998(平成10)年には名誉会長に退きました。

 

2005(平成17)年9月、坂野惇子さんは亡くなられます。死因は心不全。88歳でした。

生涯を通じて愛情をこめて子供服を作り続け、生涯を閉じられました。

 

「べっぴんさん」モデル・坂野惇子さんまとめ

坂野惇子さんは、確かに商売に関しては「素人」でした。

しかし、だからこその「品質重視」が可能になったのです。それは坂野さんの生涯を通して大きなトレードマークとなりました。

その商売に関してがっちりとサポートしたのが、夫・通夫さん。まさに二人三脚、夫婦でファミリアを盛り立てていったのでした。

 

坂野さんの会社・ファミリアの経営に関する本が出版されています!

スポンサーリンク

シェアしていただけると励みになります!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)