大橋鎮子(鎭子)さんは結婚した?独身だった?家族は?【とと姉ちゃんのモデル】

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「とと姉ちゃん」こと小橋常子のモデルとなっているのは、大橋鎮子(鎭子)(おおはし・しずこ)さん。

戦後「暮しの手帖」という雑誌を発行し、90歳になっても仕事を続けたという豪傑です。

 

モデルとなっている大橋鎮子さんについて知れば、「とと姉ちゃん」をさらに面白く観られることまちがいなし!

大橋さんの幼少期から「暮らしの手帖」に至るまで、波乱万丈な生きざまをまとめてみました。

 

大橋鎮子(鎭子)さん、東京で生まれる→北海道へ移住

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父・大橋武雄さんは岐阜県出身。10歳のころに東京・深川の材木問屋(親戚・大橋谷吉が経営)で養子となり、大橋家の一人息子として育てられます。

その後、武雄さんは北海道帝国大学に進学。そこで母・宮原久子さんと知り合います。

 

卒業後、東京へ戻って就職した武雄さんは久子さんと結婚。

その翌年、大正9(1920)年3月10日、大橋鎮子(鎭子)は生まれました。

 

その一年後、北海道・小沢で工場長に任命された父・武雄。

鎮子と妻を連れて、大橋一家は北海道へ移住します。

 

大橋鎮子(鎭子)さん、北海道で家族が増えた

大橋鎮子さんが育った、北海道の風景写真。

父・武雄は茅野や虻田(どちらも北海道)に転勤。工場長を務め続けます。

そんな中で、大橋家の次女・晴子(はるこ)が誕生

三女・芳子(よしこ)も北海道で生まれます。

 

幸せな生活を送っていた大橋家。しかし、突然の病が武雄さんを襲います。

 

父・突然の肺結核、「とと姉ちゃん」誕生の瞬間

医者の写真。大橋鎮子さんの父は医者に掛かって死んだ

以前から体調が思わしくなかった父・武雄。ついに肺結核の診断が下ってしまいます。

父・武雄は大正15(1926)年に退職し、大橋一家は東京に引き上げてきます。

 

父は鎌倉の病院で療養。

大橋一家は東京・鎌倉・大森などを転々とし、最終的には東京に落ち着くことになりました。

 

看病むなしく、死を迎える武雄。

亡くなる前、当時11歳だった鎮子(鎭子)は武雄に呼び出されてこう言われました。

「鎮子(鎭子)はいちばん大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒を見てあげなさい」

と。

 

鎮子(鎭子)はこの約束を、父・武雄の葬儀でさっそく果たすことになります。

11歳という年齢ながら、喪主を務めたのです…!

この出来事を境に、鎮子(鎭子)は度胸ある女性として力強く歩み出すのでした。

 

大橋鎮子(鎭子)さん、女学校への入学と就職

机に置かれた教科書。大橋鎮子さんは熱心に学んだ

北海道に住む母方の祖父・宮原満吉の援助のお陰で、父亡き後もなんとか生き抜いてきた大橋家。

鎮子はその後、東京の第六高等女学校に進学。

体力や健康の教育に力を入れていたこの学校で、不屈のバイタリティを手に入れます。

 

卒業後、鎮子は日本興業銀行に就職。

調査部という、世界や日本の動向を調べてまとめる部署の仕事に携わります。

これが、後々の「暮しの手帖」編集の礎となる仕事でした。

 

大橋鎮子(鎭子)さん、大学への入学と、突然の病

鎮子(鎭子)は仕事をしていくうちに、もっと勉強がしたい!と思うようになります。

それで一念発起。3年勤めた日本興業銀行を辞め、日本女子大学に進学します。

 

しかし、鎮子(鎭子)は体調を崩します。

風邪のような症状がずっと抜けず、母・久子は「鎮子まで肺結核にかかったのではと号泣。

父のこともあったので、鎮子(鎭子)は療養のために大学を中退。1年しか行っていませんでした。

 

大橋鎮子(鎭子)さん日本読書新聞へ入社、家族を養う方法を考える

新聞の写真。大橋鎮子さんは新聞社に入社した

病気から回復した鎮子は、日本読書新聞社に入社します。

前職の経験もあり、新聞作りのために生き生きと働く鎮子(鎭子)。

 

しかし、第二次世界大戦がこのころに勃発。

編集長の田所太郎をはじめ、数々の編集部員に招集令状が届いてしまい、会社は立ち行かなくなってしまいます。

昭和20(1945)年、日本読書新聞は休刊に追い込まれます。

 

戦争が激化し、鎮子(鎭子)たちの地域も空襲を受けることに。

防空壕の中で、鎮子は今後の仕事について考えます。

 

勤め人だと給料が安くて家族を養えない。でも、特別に手に職があるわけじゃない。

あるのは知恵ぐらいだ。なら、知恵を売ればいいんだ!

 

…こうして、鎮子(鎭子)は雑誌を出版することに決めました。

彼女が25歳のころのことでした。

 

新聞の復刊、花森安治との出会い

和傘の写真。

終戦に伴い、編集長の田所や編集部員たちも次々復員。

日本読書新聞は再び息を吹き返し、鎮子もまた忙しく働きます。

 

そんな、ある日。

鎮子(鎭子)は川端康成が書き下ろした原稿を持って、会社へ走っていました。

超有名作家が書き下ろしてくれた、貴重な原稿。急いで会社に届けたい。

…でも、そのとき下駄の片方の鼻緒が切れてしまいました。

 

その場に偶然居合わせた花森安治。

彼が「だいじょうぶ?」と声を掛けようとすると、鎮子(鎭子)は下駄を脱ぎ、半分裸足のまま走り去ってしまいました。

これが、花森安治と大橋鎮子(鎭子)との初めての出会いでした。

 

大橋鎮子(鎭子)の独立と花森、独身の誓い

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ある日、鎮子(鎭子)は新聞社の編集長・田所に、独立して雑誌を作りたいと相談します。

田所は優しい上司で、親身になって鎮子(鎭子)の相談に乗ります。

そして、鎮子に花森安治を紹介します。

田所と花森は同じ高校・大学出身の同級生。彼が学内で作っていた新聞を通して、花森の編集者としてのズバ抜けた才能を知っていたのです。

 

花森を顔だけ知っていた鎮子は、コワモテゆえに近寄りがたい人だと思っていました。

それでも、意を決して花森に会いに行きました。

 

花森に自分のプランを話すと、花森は

「僕は母親に恩返しができなかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」

と二つ返事で承諾したのでした。

花森の父はギャンブル狂で多額の借金。母は女手ひとつで花森たちを支え、心労からか心臓病で亡くなっていたのです。

 

大橋鎮子(鎭子)の「独身の誓い」

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鎮子と花森が顔を合わせた翌日。花森は再び鎮子を呼び出します。

そして、花森は

「君はどんな雑誌を作りたいのか?僕は二度と戦争が起こらないようにする。そんな雑誌を作りたい」

と切り出しました。その言葉を聞いた鎮子(鎭子)は、

「花森さんの仰るようにします」

と答えます。

 

花森はさらに、

「今度の戦争に女性の責任はない。それなのに酷い目に遭った。僕には責任がある。女の人が幸せで、みんなに温かい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事に僕は協力しよう」

と話し、協力を確約したのでした。

 

そして、花森は結婚についても鎮子に話します。

鎮子(鎭子)は雑誌作りのことで頭がいっぱいだったので、

「仕事を続けたいので、結婚はしません」と答えました。

花森に「誓うか?」と問われ、鎮子(鎭子)は「はい」とはっきり答えました。

そして、大橋鎮子(鎭子)は生涯独身を保ったのです。

 

大橋家の女性たち(母・久子、次女・晴子、三女・芳子)の協力も得て、「暮らしの手帖」発刊のために物事が大きく動き出しました。

大橋鎮子(鎭子)は25歳、花森安治は34歳でした。

 

まとめ

とと姉ちゃんのモデル・大橋鎮子(鎭子)さんの生涯は波乱万丈。しかし、そこには本当に強い意志が感じられます。

ドラマのストーリーと史実は、異なる部分が色々あることも分かります。(北海道で生活していた、材木問屋は父の実家etc)

また大橋鎮子(鎭子)さんは生涯を通して、独身を守り抜いたこともわかります。「とと姉ちゃん」でも、恐らくはこの事実を元に話が進んでいくと思われます。

 

そんな大橋鎮子(鎭子)さんの力強さ・たくましさ・意思の強さは間違いなく、ドラマの中で余すことなく表わされていくことでしょう!

大橋鎮子さん自身が記したエッセイで、さらに詳しく

 

「とと姉ちゃん」常子のモデルになった、大橋鎮子さんが自ら記したエッセイです。

子供のころのことや雑誌を発行したことなど、「とと姉ちゃん」の各シーンの土台になっている出来事が記されています。

大橋鎮子さんについてさらに詳しく知りたい方は、こちらを。

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